人間は本能を弱め、理性を手にすることによって論理的思考力を手に入れました。
その結果、やがて自分が死ぬ運命にあることを発見したといわれています。
人間は死を発見したことにより、宗教が必要になったと学者は説きます。
避けられない死を前にしたことで、死後の世界についての思索を重ねはじめたのです。
古代中国では、死を永遠に退けるための試み、錬金術が誕生したりもしました。
それと近い発想で死者を出さないために医療技術は発達してきました。
それとは逆に邪魔な相手を死によって、退けるために兵器が誕生しました。
死を連想する、暗闇や飢え、苦しみを退けて、安心と便利な暮らしに包まれた生を欲したために数々の便利な発明が生まれました。
このように死の概念を中心にして人類は進歩してきたといっても良いでしょう。
精神の世界においても、魔術師や呪術師、仙人達は、死を助言者として用いることで、自らの精神を進化させようと試みました。
どんな人間だろうと、どんな生き方をしていようと、死はかならずいつかやってきます。
だから、私たちの先人は、死を助言者とすることで、本当に大事なことに心の焦点を合わせ続けたのです。
ドン・ファンという呪術師は言いました。
「自分の死にアドバイスを求めるんだ。
もしおまえの死がおまえにその存在をわずかなりとも示したならば、
おまえにとって山ほどのとるに足らんことなどすぐに切り捨てられる」
私たちの死は、いつ訪れるかわからないものです。
これは死を発見した人間にとって大きな不幸であるとともに、幸運でもありました。
不幸というのは、死がいつ訪れるかわからないものであるために、普段そのことについて熟考することがないからです。
そのため、私たちは死によって生が限られているということをついつい忘れがちになってしまいます。
明日、いえ、今日にでも来るかもしれない死について私たちはあまりにも無関心です。
あなたの今抱えている問題、あなたが今重要だと思っていることの数々は、迫り来る死を前にして本当に重大なことですか。
あなたが今抱いている怖れ、苛立ちといったものはこの限られた瞬間の中で胸に抱くほどの価値のある考えですか。
ドン・ファンの説によれば、死は常に私たちのすぐ後ろ、左側の腕を伸ばせばすぐ届くようなところに存在しているのだそうです。
そこで私達をじっと見ている死に対し、私達は堂々と、今この瞬間死んでも良いと開き直れるでしょうか。
迫り来る死を意識することによって、人生を全面的に輝かせる可能性。これこそが人間に与えられた幸運です。
もし、私達が死を助言者として受け入れ、私達が永遠にこの世界で生きていられるわけではないことを悟れたら、ただぶらぶらと歩き回るだけの行為にも喜びを見出すことができます。
人生の、そして世界のかけがえのない美しさに焦点を合わせ続けることができます。
そのように生きた人にとって、死は私達から生を奪う恐ろしい狩人ではなく、私達に幸せを約束する魔法の鳥となりえるのです。


Copyright All Reserved by kagehisa since 2007
menu